2011年12月2日金曜日

どんな色の授業にするか

授業をやっていて思う。
生徒一人ひとりに教科書がほしいと。しかもちゃんとした教科書が。
ここの大学ではここの大学が発行している教科書を使って
だいたいの授業が進められている。教科書がないものに関しては
自分の手持ちの資料かインターネットか図書館で情報を仕入れて
授業準備をするようにとカウンターパートに言われている。
実際カウンターパートも他の教師もそうしているようだ。

しかし、それぞれの手持ちの資料なんかほとんどない上に
インターネットから情報を仕入れるためにはいい情報と悪い情報
(間違った情報or古い情報)を取捨選択しなければならないので
慎重にならざるを得ず、慣れていないと時間がかかる。
その上この接続の遅さ、悪さ。動画はまずDLできない。
また図書館には良書と呼べるものはほとんどない。
あるだけまだいいのかもしれないが、自分が借りてしまったら生徒が
勉強できなくなるなと思ってしまうと正直踏み留まってしまう。

また、既存の教科書があるものに関しても未だに
陸上競技のフライングが2度で失格であったり(今は一度で即失格)、
バドミントンが15points制と記載されていたり(今は21points制)、
卓球が21points制と記載されていたり(今は11points制)と、
とにかく情報が更新されていない。教員養成校がこのレベルである。

とは言っておきながらも実は、今のマラウィアンには
こういった細かな情報の更新よりももっともっと優先されるべきものが
あると最近感じており、以前私はこれを大きな問題として捉えていたが、
今はそれほどでもない。

もっと優先されるべきことは、できるだけ質の高い情報をよく浴びることであり、
それによって人は物事をより深く考えるようになるだろうし、人間やそれを取り囲む
環境の本来あるべき姿が次第に鮮明に見えてくるのではないかと思う。
そしたら、産業を外国人に牛耳られているマラウィアンもこのままではダメで、
自分たちがこの国を創造し、守っていかなくてはならないのだという忘れかけていた
(かどうかはわからないが..)自尊心を取り戻せるのではないかと思う。
そしたら町の路上のゴミも減るのかな、とも。。

またそのことは、人間間の文化や価値観の違いを知覚し、それを受容する
受け皿をつくることにも次第に繋がっていくと思っている。
そしたら、マラウィアンが”チャンチュン”と言って中国人を馬鹿にすることも
少なくなるのではないかと思う。中国だってどういう形かはよくわからないが、
マラウイのためにボランティアを送っている。そのやり方が利己的に過ぎるのか
どうかは定かではないが、そういった背景を知らずとも
それがある種の慣習であるかのように中国人を馬鹿にしている現状がある。
これは大変大きな問題であると思っている。

今の大学教師の授業の多くは、配布資料一切ナシで行われている。
教科書もないのだから情報を浴びる状態からはほど遠い。
生徒に与える情報は教師の口から出た言葉と黒板に書いた文字のみ。
重要事項はひと単語ずつ読み上げ、それを生徒がノートに写す。
「先生待って待って!」というような声があちらこちらから聞こえてきて
その度に時間がもったいないと思っている。
とは言え、こちらでは紙が大変貴重であるようだ。
しかし、滅多に手に入らないものかと言えばそうでもないように思う。
紙として授業資料が先に出来上がっていれば、今の何倍の情報を生徒に伝えられる
だろうかといつも思っている。
今は、限られた時間の中でできる限り多くの情報を生徒に伝えることの重要性と
紙の値段を天秤にかけたら紙の値段の方が重かった、と言った状態である。
明らかにおかしいと思っている自分がおかしいのだろうか。
マラウイにおける紙の価値をまだよくわかっていないからこんなことが言えるのだろうか。
それとも、単に教師側がそれだけの情報量を用意できない状態なのであろうか。
この問題の真因は別に突き止めるとしても、私は今自分が用意できる情報を限られた
時間の中でできるだけ多く伝えられるような授業作りをしていきたいと思っている。


さらに、情報に関して。
マラウィアンは情報の伝達がどうも下手な気がする。
この大学には学長を始め、日本への留学経験がある教師が数名いる。
中には日本で修士号を取得した教師もいて、彼はいつも親しく声を掛けてくれる。
その彼の授業を見させてもらったところ、他の教師と比較し、
確かに授業の展開の仕方が考えられていると思うし、生徒の食いつきも良く感じる。
その教師の人柄もあるのかもしれないが。
しかし、そういった経験値のある教師の知識や知恵を共有する場が
どうやらなさそうなのである。なんとまぁもったいない話かと思う。
しかし、そういう場がないのは、もしかしたらそれを必要としている人間が
いないからなのかもしれない。それが、単に向上心がないからなのか、
時間的余裕がないからなのか、精神的余裕がないからなのかはわからないが。
もしくは開示する側にこういった症状があるのかもしれない。
なにはともあれ、今ある環境を最大限フル活用させる手助けさえできれば、
それだけで大学がガラリと変わるような気がする。
それが難しいのだろうけれど。

とりあえず今はまだ情報収集。まだまだ始まったばかりなので、
しばらくは落ち着いとこうと思う。慎重になるのは得意な方だし。

1 件のコメント:

  1. フィジーも教科書がなくて生徒が黒板の板書のみで授業を受けている。発展途上国では先進国で当たり前のことも当たり前ではない。その環境下で最大のレバレッジをかけられる効率的方法で物事を前に進めなければならない。困難は多々あるが、得られるものもたくさんあると思う。

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